真理を認識し、真理を経験し、真理を提示する

 今日クリスチャンの間には、聖書の真理に対する認識に関して大きな欠陥があります。ある人たちは真理を知っていますが、彼らの理解はかなり浅薄です。ですから、主の回復の目標は、すべての聖書の真理、すべての聖書の実際を回復することです。主の回復の中にいる者として、わたしたちはみな真理の完全な認識、真理の経験、真理を人に提示する技術を持つという切迫した必要があることを、認識しなければなりません。
 多くのクリスチャンは聖書の用語になじみがあっても、これらの用語の意味を知らないかもしれません。もしあなたが光、真理、命の意味について彼らに尋ねるなら、彼らはこれらの事柄の意味はわからないと答えるかもしれません。ですから、わたしたちは、これらの事柄に関する尊い真理を人に提示することができる必要があります。今日、主の回復の中での必要は、わたしたちがみな真理を学び、真理を経験し、真理を人に提示する技術を発展させることです。
 主の回復は真理によって広がります。わたしたちの多くは、主の回復に引き付けられたのは力に満ちた魅力ある語り手によってではないと、証しすることができます。むしろ、わたしたちは真理によって引き付けられました。わたしたちは聖書の真理を提示することによって、この道に引き付けられました。例えば、わたしは一人の兄弟のことを知っています。彼が引き付けられたのは、聖書の最初の二つの章、創世記第1章と第2章と、聖書の最後の二つの章、啓示録第21章と第22章が、いかに互いに対応しているかを提示されたからです。結局、この兄弟はこの真理によって、主の回復のために得られました。すべての特別集会や訓練におけるわたしの目標は、ただ聖書の真理を提示することです。

神聖な光の具体化

 すでに見てきたように、神聖な光は神の表現の性質であり、神聖な真理の源であって、神聖な命の中で輝きます。今やわたしたちはさらに進んで、神聖な光は、受肉した神であるイエスの中に具体化されていることを、見なければなりません。彼は神聖な光の具体化ですから、主イエスは言われました、「わたしは世の光である。わたしに従う者は、決して暗やみの中を歩くことがなく、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。彼は同じような言葉を、ヨハネによる福音書第9章5節で語られました、「わたしは世にいる間、世の光である」。真理という結果になり、命の中で輝く神聖な光は、受肉した神である主イエスのパースンの中に具体化されています。この事柄は深く深遠です。わたしはあなたがたがこれらの節を祈り読みして、神聖な光に関するこれらの事柄の実際に触れるようにと励まします。

神聖な真理

真理の意義

 ヨハネの第一の手紙第1章6節で、ヨハネは神聖な真理について語っています:「もし、わたしたちが神と交わりを持っていると言いながら、暗やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行なってはいません」。真理とは何でしょうか? 真理を定義することは困難です。わたしたちは、第1章6節のような節の真理は健全な正しい教理を言っていると思うかもしれません。中国語の真理という言葉は、真実な教理を意味します。多くの人は、英語の「真理(truth)」という言葉について同じような理解を持ち、少なくとも聖書に見いだされる限りでは、それは正しい教理を、意味すると考えています。
 わたしたちは日常の会話で、真理について幾らか異なる理解を持ち、真理は偽りのものに反する真のものを意味すると考えるかもしれません。例えば、わたしたちは真実の話をすると言います。
 聖書における真理の意味を理解しようとするなら、真理とは何であるかの伝統的で一般的な理解を超えて行く必要があります。聖書における真理を正しい教理と考える伝統的な見解は正確ではなく、この世の一般的な意味は、聖書に見いだされる真理という言葉に適用されるべきではありません。
 真理というギリシャ語は「アレセイア」(aletheia)です。この言葉を学ぶ時、わたしは多くのレキシコンやコンコルダンスを調べました。わたしは特に、キッテルの「新約聖書の神学辞典」(Kittel’s Theological Dictionary of the New Testament)の真理の項目に助けを受けました。さらに、わたしはまた、「アレセイア」という言葉、あるいは関連した言葉を用いている新約のすべての節を考察しました。これらの節を文脈から学んだ後、またレキシコンやコンコルダンスを調べた後、わたしは新約における真理の意味についてある結論に達しました。これらの結論は、第1章6節の真理に関する長いノートの中に要約されており、ヨハネの第一の手紙の回復訳に印刷されています。
 ギリシャ語の「アレセイア」は、真理あるいは実際(虚栄と相対する)、確実、純正、真実、誠実を意味します。それはヨハネの高度に特徴的な言葉で、新約の深遠な言葉の一つです。この言葉は、神聖な啓示の内容である神聖なエコノミーのすべての実際を意味し、聖なる御言によって含まれ、伝達され、明らかにされています。



 新約によれば、真理はまず神であり、彼は光と愛でもあり、受肉して神聖な事柄の実際となられました。神聖な事柄とは、神聖な命、神聖な性質、神聖な力、神聖な栄光を含みます。これらはわたしたちの所有となり、わたしたちは神を恵みとして享受することができます。これは、ヨハネによる福音書に啓示されています(ヨハネ1:1、4、14-17)。

キリスト

 第二に、新約における真理はキリストを意味します。彼は受肉した神であり、彼の中には神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでいます(コロサイ2:9)。彼は以下のものの実際です。a)神と人(ヨハネ1:18、51、Tテモテ2:5)。b)旧約のすべての予表、型、影(コロサイ2:16-17、ヨハネ4:23-24)。c)すべての神聖で霊的な事柄、すなわち、神聖な命と復活(ヨハネ11:25、14:6)、神聖な光(8:12、9:5)、神聖な道(14:6)、知恵、義、聖別、贖い(Tコリント1:30)などです。ですから、キリストは実際です(ヨハネ14:6、エペソ4:21)。

その霊

 第三に、真理はその霊です。その霊は変貌(へんぼう)したキリストであり(Tコリント15:45後半、Uコリント3:17)、キリストの実際(ヨハネ14:16-17、15:26)、神聖な啓示の実際です(16:13-15)。ですから、その霊は実際です(Tヨハネ5:6)。
 今やわたしたちは、新約の真理、「アレセイア」が神を指しているのを見ることができます。真理は神聖な光と愛である神であり、受肉して、わたしたちの所有のためのすべての神聖な事柄の実際となり、わたしたちに神を恵みとして享受させます。これは、神がわたしたちの所有のための神聖な事柄の真理、実際であることを意味します。ですから、わたしたちは実際としての神を所有し、恵みとしての彼を享受する必要があります。こうして、神聖な実際とは実は神ご自身です。彼はすべての神聖な事柄の実際です。
 新約における真理はまた、受肉した神であるキリストを意味します。キリストは、神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでいる方です。神たる方の豊満の具体化として、受肉した神であるキリストは、神と人の実際、旧約のすべての予表、型、影の実際、すべての神聖で霊的な事柄の実際です。
 真理とは何でしょうか? 実際とは何でしょうか? 実際とは受肉した神であるキリストです。実際とはキリストであり、この方の中に神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでおり、彼は神、人、予表、型、影、すべての神聖で霊的な事柄の実際となられます。旧約に多くの予表、型、影があります。キリストはそれらの実際です。聖書にはまた、命、光、知恵、義など、多くの神聖で霊的な事柄を見ます。キリストご自身はこれらすべての事柄の実際です。ですから、新約で「真理」、「実際」という言葉を読む時、それはまず神を指し、またキリストを指していることを認識する必要があります。
 すでに示したように、新約で真理はその霊を意味します。彼は変貌したキリストであり、またキリストの実際、神聖な啓示の実際です。こういうわけで、ヨハネの第一の手紙第5章6節でヨハネは、「その霊は証しする方です。なぜなら、その霊は実際であるからです」と言うのです。
 わたしたちが新約における真理の意味を徹底的に学ぶことは、確かに価値があります。わたしたちは、真理、実際は神、キリスト、その霊であることを、ごく簡単に指摘してきました。

神の御言

 真理は三一の神であることを見たので、わたしたちはさらに進んで、真理は神聖な啓示としての神の御言でもあることを指摘しましょう。それは神とキリストの実際と、すべての神聖で霊的な事柄の実際を、啓示するだけでなく伝達します。、ですから、神の御言も実際です(ヨハネ17:17)。
 御言は三一の神の説明です。これは、真理が何であるかの第四の面、すなわち御言が、実は真理の最初の三つの面、父、子、霊の説明であることを意味します。ですから、実際とは父なる神、子なる神、霊なる神、そして神聖な御言でもあります。

その信仰の内容

 新約によれば、真理はまたその信仰(信心)の内容でもあり、それは、わたしたちが信じているものの実質的要素であり、完全な福音の実際となったものです(エペソ1:13、コロサイ1:5)。これは新約全体で啓示されています(Uコリント4:2、13:8、ガラテヤ5:7、Tテモテ2:4、7後半、3:15、4:3、6:5、Uテモテ2:15、18、25、3:7、8、4:4、テトス1:1、14、Uテサロニケ2:10、12、ヘブル10:26、ヤコブ5:19、Tペテロ1:22、Uペテロ1:12)。
 神の御言の内容はまた、わたしたちのクリスチャン信仰の内容でもあります。これは客観的な信仰、わたしたちの信心です。御言は三一の啓示また説明であり、この御言には内容があります。簡単に言えば、これらの内容は新約の内容、またわたしたちのクリスチャン信仰の内容です。ですから、新約の内容とわたしたちのクリスチャン信仰の内容もやはり真理、実際です。これは、新約において、実際とはわたしたちの信仰の内容と、新約全体の内容を指していることを意味します。

神、人、宇宙に関する実際

 聖書において真理とは、神、宇宙、人、人と神との関係、人の互いの関係、神に対する人の責任に関する実際でもあり、これは、創造と聖書を通して啓示されています(ローマ1:18-20、2:2、8、20)。
 神と宇宙に関する実際の状態を知ろうとするなら、わたしたちは憶測したり、推論したりする必要はありません。わたしたちはただ聖書に来る必要があります。なぜなら新約に、神、宇宙、人に関する真理があるからです。また神に対する人の責任に関する真理、神また人との関係に関する真理があります。この真理は、神の創造の中で部分的に啓示されており、聖書の中で完全に啓示されています。神の創造において、神、人、人と神との関係に関する真理のある面を見ることができます。ですから、新約で真理という言葉は、これらの事柄を指して用いられています。

神聖な美徳としての真実

 新約で真理というギリシャ語、「アレセイア」はまた、真実、信用、誠実、正直、信頼、信実をも示しています。これらは神に関しては神聖な美徳であり(ローマ3:7、15:8)、人に関しては人の美徳であり(マルコ12:14、Uコリント11:10、ピリピ1:18、Tヨハネ3:18)、神聖な実際の結果です(ヨハネ4:23-24、Uヨハネ1前半、Vヨハネ1)。
 ヨハネによる福音書第4章23節と24節は言います、「しかし、真の礼拝者たちが、霊と真実の中で父を礼拝する時が来る。そしてそれは今である。父はそのように彼を礼拝する者を、捜し求めておられるからである。神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない」。ある人たちは、これらの節の真実という言葉は神を礼拝する者たちの誠実を意味するという観念を保持しています。この観念によれば、わたしたちは霊の中で、また霊をもって神を礼拝するだけでなく、また誠実の中で彼を礼拝すべきです。この理解は誤りです。ヨハネによる福音書第4章23節と24節で、真実とは神がわたしたちにとって実際となられる結果、成果を言っています。わたしたちが神をわたしたちの実際として享受する時、この享受にはある結果があります。この結果が真実、実際です。実は、わたしたちの実際としての神を享受した結果は、わたしたちから出て来られるキリストです。わたしたちが三一の神(父、子、霊)をわたしたちの実際として享受する時、すなわち、神聖な三一がわたしたちの享受のためにわたしたちにとって実際となられる時、この享受はある種の美徳という結果になります。この美徳はわたしたちによって経験されたキリスト、すべてのささげ物の成就であるキリストです。(「ヨハネの第一の手紙ライフスタディ」から抜粋 日本福音書房)

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